ちょこラム!アーカイブス
■2005−2006にブログに書いた4人の「ぽんぽんコラム」をストックしました

テルニーさんの場合
telny

・鳥羽市の離島在住の先天的で進行性の障害を持つ電動チェアウォーカー

「離島」「障害」なんのその、といろんなことにチャレンジしするどい感性を磨き続ける
哲人のナマの言葉から得るものは多いです。

2006/6/30
「人間と神様と」

「あら たふと
 青葉 若葉の日の光」
という句が芭蕉にある、らしい。

ただ単に「青葉 若葉の日の光」を美しいとするのではなくて、それを「尊い」と感じる心。しかも「あら」という驚きとともに。やはり伊勢の地で詠んだのでしょうか。

この場合、「青葉 若葉の日の光」を美しいとか「尊い」と感じるのは人間ですから、そこに「尊い」神を見ているのは人間であって、人間がいなければ、たとえどのような「尊い」「青葉 若葉の日の光」があったとしても、それは自然に過ぎないと思います。

ところが、そうは考えない人もいるようで、人間がいてもいなくても神様はそこにいるのだから、本来は参拝者など不要であると。まして障害者や高齢者など無理して参拝してもらう必要はないと。つまり仕える自分たちがいるだけで十分だと。

たしかにそういう考え方もできるし、反論するスベもない。

ただこんな考え方では、人間の中の神様には会えないだろうと、かわいそうにも思う。

信じられないだろうけれど、人間と神様は、意外に近い距離にいるのだ。


2006/5/31
「後悔」

今さらながら、こんなことを考えても仕方のないことだけど、人生を振りかえって医師を目ざす道もあったのだと、後悔の念を覚えることが最近は多い。実現できたかどうかは別にして。

子供の頃から多くの医師のお世話になってきた。良きにつけ悪しきにつけ、神様のように考えていた部分もある。少なくとも、言うことを守っていれば、どんな病気でも治療してもらえると信じていた。あるいは信じたかった。不治の病など数えるほどしかない、はずだった。

ところが実際は、治療法どころか、その病気そのものさえ満足に研究されていないものもある。治療法だと与えられていたけれど、「何もしないよりまし」程度だったものも多い。難病サイトには怨嗟の声があふれる。

しかしこれは、たぶん医師の責任なのではなくて、医師に頼るしかない患者の幻想の産物ではないか。ノーと言えない神様は、近くでよく似た答えをみつけるしかない。生活する人である医師に多くは望めない。

ならば答えは自分でみつけるべきだったという、おそろしく短絡的な後悔だけれど、それほどに切実でもある。

できないことはできないと、はっきりと言われたほうが楽なことが、世の中には案外多いのかもしれない。


2006/4/30
「夢見るサイボーグ」

人間の脳から直接電気信号を読み取り、外部のロボットの手を動かしたり、逆に、人間の手足の神経に外部から電気信号を送って、脳からの信号のように感じさせる技術が、すでに実用化の段階にあるそうだ。数日前のNHKの番組で、立花隆さんが専門家と対談する中で紹介されていた。

21世紀の世界に住みながら、昔漫画で語られていたような技術にはなかなかお目にかかれないけれど、これには驚いた。うまくすれば、どれだけの人間が救われることか。映像にもあったが、手が動かなくても、脳で思うだけでパソコンが動かせるのだ。

たしかにサイボーグという言葉には非人間的な暗さがあって、嫌う人も多い。医学と結ばれれば画期的だけれど、軍需産業に利用されれば悲惨だ。しかし、それでもサイボーグを夢見る人は多い、はずだ。

しかも、当然、老人介護だろうが災害救助だろうが、すべてのボランティア的なものが影響を受けるに決まっている。ならば、今から皆いっしょに、すてきなサイボーグを夢見る方法を考えておきたいものだ、悪用されないためにも。


2006/3/3
「アンフェアなのは誰か」

パソコンで株のトレードを始めたことは、この前のコラムで書いた。自分の場合、多少痛い目にあったとしても、目立ちたがりのバカの失敗で笑ってすませられる。もちろん、あいたくはないが。

ところが、高齢者が生活資金を株につぎこんでしまったというライブドアの問題は深刻だ。トレードはなくなってもいい資金でやるというのが鉄則だから、本人たちも悪い。イカサマをしたライブドアも悪い。ただ、それだけだろうか。

テレビなんかで責められるのはライブドアだけだけど、もっと悪いのは何も知らない高齢者に株を買わせた証券会社ではないのか。その危険性を十分高齢者に告知しないで預金から証券への移動を歌う国ではないのか。

裁判の場にひきだされ、今度は弁護士のエジキにされてしまう姿を思い浮かべてしまうのは自分だけか。


2006/2/28
「春を待つ顔」

寒さに打ちのめさて外出を渋っていたら、感情の起伏まで失くしてしまった、ような気がする。近くに鏡がないので分からないが、顔もさぞや生気のないことだろう。

人の生きるアカシを感情の表現だとする考え方もあるぐらいだから、これはまずい。なんとかせねばならぬ。

という言い訳をたずさえて、去年から策ボウしていた「楽しいこと」を始めた。パソコンを使ったトレードである。いよいよ個人投資家への道を突き進むのだ。

まだ練習段階だからそれほどのドキドキはないけれど、これでけっこうな大金を運用なぞしたら、…少しは楽しい一日になるだうか。

もちろん皆にこんな「キケン」をすすめているんじゃない。ただ自由に動けないことで、感情まで押さえこんでしまう人間が多くはないか。

あなたの近くにある春を待つ顔に生気はありますか。


2006/1/31
「排せつ考」

新年早々、ビロウな話で申し訳ないんだけど、風邪をひいてしまった、腹にくるやつを。つまり一日中の下痢状態。

これ、足腰が満足でもやっかいな状況なのだが、不満足ともなれば、ほとんど一日中臨戦体制でいなければならない。油汗まで流すことを思えば、いっそのことトイレに立てこもろうかとも考えるのだが、寒さと家族の苦情で実行は不可能だ。

だいたいが、介護・介助さまざまあれど、ボランティアだろうが料金をぶったくろうが、排せつの問題がクリアできたなら、それだけでその仕事の半分は責任が果たせたと考えてもいいんじゃないか、とも思える。

それほどに重要で切実な問題なのだが、解決策を求めてもいまだに選択肢は少ない。いきつくところ、オムツという昔からの道具に頼るしかない、しかも思いっきりネガティブな気持ちのままに。

「はばかり」と呼ばれたトイレのイメージそのままに、排せつが語られることをいいかげん逆転しないと、高齢化社会は切なくなります。そこに解決策もあるということなんだけど。


2005/12/31
「収支決算」

 また、一年が過ぎた。
 自らを省みて、今年の収支決算はどんなものかと考えてみる。楽しいことも多かったけれど、やはり体調のすぐれなかった分、マイナス査定ということになるのだろうか。

 多くの場合、生活の中で「楽しいこと」が向こうからやってきてくれることは、きわめて稀だ。ほんとうに楽しいことは自分で用意し、自分で実行しなければならないことを多くの人は知っている。ところが、体調が悪いとそこにエネルギーを奪われて、楽しいことを画策する余裕がなくなる。健康が重要視される所以だろう。

 で、PONPON的にこれを見れば、ここにコラムを細々と書く以外、ツアーセンター分を含めて、ほとんど何もしなかった。わっはっはと笑ってごまかすしかあるまい。そんなに期待されてるわけでもないし。

年が改まっても、体調がよくなる兆しは見られないだろうけれど、
とりあえずは楽しいことを画策してやろう。いや、もう画策しているのだ。


2005/11/30
「未知なる冬」

寒くなってきた、と確認するまでもなく、身体は見事に反応している。想定内の動きをしてくれないのだ。

寒さは禁物と医師にも言われているし、自分でもそう思う。しかし、それでも昨年の冬まではその影響は想像できたし、一応の対策も立てられた。

ところが今年の冬は皆目見当がつかない、自分の身体のはずなのだが。まったく動かなくなるのか、少しは思うように反応してくれるのか、五里霧中。

人間の実験として見るならばそれなりに面白いのだろうけれど、身に降りかかるとなれば、さすがに、かなり、しんどい。

ここは春まで、冬眠するに限るのだが、そうもさせてもらえそうにもない。
ことしの冬は長くなりそうな、そんな気がして。


2005/10/31
「災害か怠惰か」

「テルニー、心配せんでも、だあれもほおって、おかへんよ。すぐ に助けにいくさ」と言ってくれたのは、我が良き隣人たちである。 もしも、地震なんかの天災が襲った時のことだ。

 最近、我が家のリフォームを行なった。(というか、大工さんの都合で、まだ継続中なのだが。)一階に新たに自室を作り、出入り 口にかなり目立つスロープを付けて、寝室でもある自室からすぐに
車いすに乗って、そのまま戸外に直接出られるようにしたのだ。

 もともとの理由は毎日の生活を楽にしたいからなのだが、それだ けでは世間的に大業なりフォームの理由には弱いような気がして、隣り近所には「これでいつ地震が起きても、すぐに逃げられる」と
言っておいた。それに対する反応が先に書いた言葉なのだ。

つまり、そんなリフォームまでして逃げることを考えなくても、なにかあったらすぐに私たちが助けにきてあげるよ、という、障害者と高齢者だけの世帯にとっては、とてつもなく有難く心強い宣誓 である。

しかし、そんな嬉しい宣誓は宣誓として、この避難路確保のためのリフォームは必要なのだと思う。もちろん、隣人たちの言葉を疑っているわけではない。「その時」になれば、きっと避難の手助け
をしてくれるに違いない。

ただ「その時」の状況は誰にも分からない。助けたくても助けに 来られない場合もあるだろう。たとえ助けに来られたとしても、こ ちらがすぐに逃げられる態勢にあれば、それにこしたことはない。

自分たちが災害弱者であるにしても、できうる限りの手は打っておきたい。弱者の側が何もしていなかったために救出に時間がかかり、救出者までもが危険にさらされるという愚は避けねばならない。 それが災害弱者としての最低限の責任だと思う。

 かくして我が家のリフォームは続く。災害に備えるためではあるけれど、災害を待っているわけにもいくまい。災害は災害として、リフォームが続けば我が生活は楽になり、それにともなって我は怠
惰となる。言い訳ではない、と思う。


2005/9/30
「恋は涙かボランティアか」

遅ればせながら、という感じで、03年制作の「ジョゼと虎と魚たち」という映画をCS放送で見た。

 ある大学生(妻夫木聡)が偶然、老婆に押された乳母車に乗って 朝の街を散歩する足の悪い女の子(池脇千鶴)と出会う。「この子 は壊れものやから」と言う老婆は女の子を世間から隠し、人目の少ない早朝にだけ女の子の願いを入れて乳母車で外出させていたのだ。

 そんな女の子に興味を持った大学生はその家に出入りするようになり魅かれていく。しかし、老婆の拾ってきた雑誌や本だけの知識 で世間と対峙する女の子は、わがままで偏屈で、老婆の世間から隠そうとする思惑とあいまって、大学生は女の子から離れざるをえな くなる。

 就職活動の途中で老婆の死を知った大学生は、その足で女の子の家に急ぐ。寂しさに耐え切れず女の子は大学生に「そばにいてほし い」と懇願し、二人の同棲生活が始まる。恋人としての生活は一年余りも続くが、どこへ行くにも女の子を背負わなければならない現実と、女の子の隔世した感性に不安を感じた大学生は別れを決意し、 元の恋人のところへ戻っていく。

 障害者を隣り近所から隔絶して生活するスタイルが未だに存在し ているという前提が簡単に受け入れられているようで嫌だけど、精神的な部分で、そうなのかなとも思える。それが未だに街中で障害 者と出会うことの少ない現実に反映し、映画の中での女の子の世間に対する態度に表れているのかもしれない。

 外出するたびに恋人に背負われている姿を女の子は自然で当然のこととしているのに対して、大学生はそこに、恋愛とは相容れないボランティア的な感情を描いているフシがある。それが健常者としての見方であり、それは、大学生の元の恋人が女の子の頬を叩く場面でも言外に示される。「あなたのは恋愛じゃない、ただのボラン ティアだ」と。

 恋愛の心理とボランティアの心理、似ているようで違っているようで、難しい。そこに障害者健常者入り乱れた恋心が加われば、おもしろいけど、ため息もでる。

 映画の最後、女の子は一人暮らしを始める。もう背負われて外出することもなくなった。だけど、新たに外の世界に出た、電動車いすに乗って。


2005/8/31
「ボランティアはアメ玉のように」 

 鳥羽駅で行なわれた「駅ボラ」、見当をつけて「お手伝いしまし ょうか?」と声をかけたとしても、それを断られる場面も多かった という。明らかに、手伝ってもらえば楽なのに、という場合でも。

 高齢者はいざ知らず、障害者(特に先天性の障害の持ち主)には、 自分でできることは自分でやる、あるいはやりたいという、幼い頃から刷り込まれた強迫観念みたいなものを持っている人間も多い。 生きていく上での自らを支える矜持も大切だけれど、TPOによっ ては、曲げて楽を取って、より高次の自己実現の道を探ることも必 要になる。

 ようするに、ボランティアはアメ玉のように、しゃぶり尽くせば いいのだ。

 東京に住む友人は、電動車いすで山手線のラッシュ時に乗り込む という猛者だ。街を一人で走っていて、うまそうなレストランに巡り合うと、道を通る人だれかれ構わずに頼み込んで、入り口の段差 を車いすごと持ち上げてもらうという。食事を終えれば、これまた他の客従業員の区別なく手伝ってもらって段差を降りる。

 一人暮らしだが介助が必要なので公的なシステムをフルに使う。 それだけでは一週間をカバーできないので足りない部分は大学の福祉サークルの学生に来てもらって埋める。

 これだけボランティアをしゃぶり尽くそうとすれば相当なエネルギーが必要だと思う。何もしないほうが楽じゃないかとも思える。 しかし、やはり人生は何もしないよりは楽しみたい。

 世の中に「ボランティア」は、ようやく浸透し始めた。少なくとも「する」側の形は見えるようになった。では、それを「受ける」 側はどうなのだろうか。「他人様のお世話にはなりたくない」という感情から脱却できているのだろうか。

 子供からアメ玉を横取りするのはよくないけれど、差し出されたアメ玉ならば大いにしゃぶり尽くす。そんな屈託のない姿が自然に行なわれたならば、ボランティアは今以上に楽しくなるに違いない。


2005/7/31
「涼感電脳生活」 

  扇風機はブンブンと羽をうならせ、それにつられるようにパソコ ンも内部でファンを懸命に回転させている音がする。人間もCPUも そのまま、とろけてしまいそうだ。

 キーボードを打つにも腕が痛くなるので、もっぱらマウスの操作 だけに頼る生活。紙の重さも耐えがたく、新聞も読書もモニター画 面で済ませてしまう。電子書籍は未だに数は少ないものの、本の置 き場に困るという物理的障壁からも開放してくれる。

 作家数も作品数も物足りないけど、それでも本は本。暑さを忘れ させてくれる小説に出会えることだってある。

 村山由佳「キスまでの距離 おいしいコーヒーの入れ方」

 このシリーズ、4冊あるんだけれど、この暑さに苦しむ中、ほぼ 1週間で読むことができた。作者についても簡単に調べられるのが 便利なところで、わがデスクトップには村山さんの画像が鎮座して
いる。作品に惚れれば作者にも惚れるのだ。

 内容は詳しく書かないけど、忘れていたピュアな恋愛、というと ころか。

 体力はおぼつかないけれど、また小説が書きたくなった。


2005/6/30
「時間と安全とバリアフリー」  

 JR西日本で事故が起き、大勢の人が死傷し、そしてまた運転が再開された。

 駅での停車時間を15秒から20秒にしましたなどという「対策」が 喧伝されたけれど、なにか違和感を覚える。これに何も感じない人間が多いとしたら、事故は再び起こるような気がする。

 何を安全と呼ぶのだろう。

 足腰の弱いお年寄りが電車に乗り席を探し、あるいは席を代わってもらい安全に座るのに20秒は十分な時間なのだろうか。

 一般の乗客が乗り降りした後で板を渡してもらい、車いすで電車に乗り込み安全なポジションを確保するには20秒は短すぎることだけは確実に言える。車いすが3台だったら、降りる時は、などと不 安は尽きない。

 主な駅で車いすで安心して乗り降りできるようにとバリアフリー法の旗振りをしたのは国土交通省ではなかったのか。なぜ異論が出ないのだろうか。

 事故の起きた路線に乗ったことはないし、利用者が時間の早さを 優先するからと言われれば、それまでのことになってしまうだろう けれど、ほんとうの安全とは何なのか、そのスタンスを変えない限り、またテレビで意味の無い責任者のお辞儀だけを見ることになる。

 バリアフリーを、社会から脱線させられた障害者や高齢者に対する気休めのお題目としか見ないならば、無念であった死者の真の声 などは永遠に届きはしない。


2005/5/31
「「瀬戸際」あるいは「年貢の納め時」もしくは「まな板の鯉」」

 首から下が麻痺して動かなくなるという、ちょっと刺激的な結末が如実に実感せられてきた今日この頃、相変わらず「痛み」だけか らは逃げられないでいる。
 PCのHDDを増強して、映画とか電子本とかCDとか、いろんなものをデジタル化して備え始めてはいる。ま、それなりにマウスさえ動 かすことができれば、映画とか小説とか落語とか演歌とか、エンタ
ーテイメントの海に浸っていられる環境。
 ところが、いくら本人が「年貢の納め時」もしくは「まな板の鯉」などと釈迦なみに悟ることができたとしても、まわりはそれを 絶対許してくれない。
 リハビリから神頼みまで、あらゆるものを駆使して、その結末から遠ざけようとする「瀬戸際」まで。当然といえば当然なんだが、 実はこれが一番苦しくて厳しい。


2005/3/29
「B・J探し」

 春になり、少しは体調もよくなってくるだろうと期待しているん だけれど、はかなくも期待は裏切られ続けている。手足の痛み、しびれ、特に肩が痛いために腕が上げられず、キーボードが叩けない
のは、つらい。

 形成外科医の岩平佳子さんに「ブラック・ジャックになりたく て」という本がある。切断された腕をくっつけたり、女性の乳房を再建したり、火傷で痛んだ皮膚を移植したりと、漫画の主人公その
ままに治療する姿が描かれている。あらためて、医学の進歩はすごいと思わざるをえない。

 こんなのを読めば、自分の痛みを解決してくれるB・Jがどこかに いないものかと探してみたくなるのも人情だ。全快とは言わないま でも、楽な生活に向かわせてくれる魔法の手は存在しないかと。子
供の頃に「B・J」を読んで夢をふくらませた心そのままに。

 ところが、漫画の勧善懲悪の世界が現実には決して反映されないように、どんなに医学が進歩したように見えても、治癒できない、 治療のための研究さえ十分でない疾病が世間には数多くある、思っ た以上に。そこからは、しょせん医者も人間世界の住人なんだと言 う声さえ聞こえてくる。高額な治療費を受け取るB・Jだけは理解できると。あらゆる苦痛を取り除いてくれる魔法の手は存在しないと。

 それでも、なのだ。あえて気持ちを込めて書きたいのだ、B・J探しは続けていたいと。実際に魔法の手を持つ医師の登場を願うばかりでなくて、自分の心のどこかに存在するB・Jを探し続けていたいのだ。

 「病は気から」という。その気の部分を癒してくれるのが心の中のB・Jのような気がする。もちろんそれは医師でなくていいし、まわりの人間の手助けで見つけることができるかもしれない。

 ただ、心の中のB・Jが見つけられたとしても、生身の身体の痛みは痛み、消えることはなさそうだ。このへんで、キーボードを叩くのはやめておこう。


2005/2/28
「悪役としての「障害者」」

 今回からこのコラムの置き場所がブログに変わったという、そのブログつながりで。。。

手元にあるRSSソフトのキーワードに「障害者」と入れてみる。 出るわ出るわ、毎日30〜50項目。それを読んでいるだけで結構楽しめるし、本音と思われる部分もストレートに伝わってくる。

 で、言わずもがな、のことなんだけど、障害を持たない者の使う障害者という言葉には、否定的というか忌み嫌うというか、あまり喜ばしい表現としては使われない。ま、障害者の使う障害者もたい
ていはよく似たものなんだけど。

 結局、障害を持たない「健常者」という正系があって、そこから外れてしまうアウトローとしての障害者なんでしょう。だから、事故で身体が不自由になることは「おまえも障害者にな(りさが)っ てしまったのか」と嘆かれることになる。

 ところが、生まれた時から障害を持つ者にとっては健常者もアウトローも糞もない。障害を持った身体がオリジナルな正系であって、無意味に嘆かれても困るんですよ。

 つまり、男であるとか女であるとか、背が高いとか低いとか、三重県人であるとかB型であるとか、そんな属性としての障害のはずなんだけど、それを勝手に忌み嫌われてしまうのは忍びない。

 たとえば東京に行って「おまえ三重県人かぁ」と問答無用に否定されてしまうようなもの。しかも、それを誰も疑うこともなく続けることで三重県人自身が「おれは三重県人なんだぁ」と自己否定する。単なる属性なんだけど。

 単純に言葉の問題として考えれば、「障害者」という言葉ほど手垢のついた悪役のマスクを付けた言葉はないのかもしれません。否定されたかと思えば、「さあ、知的障害者のスペシャルオリンピッ
クスだ、感動しよう」みたいな押し付け。これすべて健常者という怪しげな正系の物差しでしか計ってないのでは。

 と、嘆いてばかりでも仕方ない。次はどんなキーワード入れてみ ようかな。